のび太の堕落論:ダメのままでいたいのか<本当は怖いドラえもん>
改めてドラえもんの(初期の)お話の骨子(ことがらのささえになる要素)は、ダメな人生を送るのび太くんを何とかマシな人生に直すことだった、はずである。
そのためにドラえもんもそのことに心を砕いてのび太くんを助けることでお話が進んだものだけれど、しかしそのためにはのび太くん自身がもっとしっかりとした生き方をすればいいのだけの話、とだれしもがそう思うことは少なくないだろうけれど。
たしかに時々「きみがもっとしっかりとしてくれれば」とドラえもんをはじめ誰しも口をこぼしてはいる。
ところがいざしっかりとすればどうなるか、答えは簡単、その時点でドラえもんそのもののお話が成立しなくなってしまうのである。
例えば藤子F先生のアシスタントであった片倉先生は『ドラえもん大百科』の中で「もしも」の世界でしっかりしたのび太くんに「きみは何のためにここにいるの」と最後問われる等、結局はそうそうダメを克服されるわけにはいかず、やはりダメなままで進めるしかなかった。
例えば『ワの字で空をいく』の巻にては「遅刻して叱られたくない」の思いから思案にふけるくだりにてもまったくの見当違いの思案になり、さらには「こまったものだ」とナレーションで述べるなと、まるで他人事と決め込んでいる。これでは「ダメ」を嘲笑しているギャグと読んでしまいかねず、ついには「ダメ」に逃げているとも受け止めてしまいがちである。
結局は、当初の魅力であるはずの“ダメ”が結局は醜態となり、ついには自虐につながるといった悪循環に陥ってしまうのだ。
さらにいえば、それを面白がっていた当時の読者(編者含む)やら編集者やらが調子に乗ってしまった藤子F先生の“おかしさ”に気付かなかった、あるいは気付いても声が届かなかったか遮られ、これもまた最後取り返しのつかない事態にまで陥ったといったところか。
そもそも「ダメでもいいじゃないか、のび太だってダメなりにしっかりと生きているんだ」というのが本当の趣旨で、その想いは昭和30年代の高度経済成長期における人々(特に子供たち)のココロに響き、40年代以降の原動力となったことだろう。しかし時代は移って50年代半ばから平成になってのモノが豊かになった時代、本来ならダメなりに頑張ってある程度の成功を得るはずが、反してそのダメに伴うズッコケや悪態でその趣旨が歪められて結局は伝わらなかったということか。
しかしそれでも、ダメなりに努力はするというシチュエーションのお話も本編でもたまには描いているし、大長編では多少は尾びれはついているものの、ちょっとの努力と秘密道具の力、そして何より大いなる行動力で大活躍はしているものなのだから。それはそれで良しとするべきではないのか。
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