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ドラえもんとゆかいな仲間たち:自分会議<本当は怖いドラえもん>

今回取り上げたいのは、藤子F先生の短編の一つ『自分会議』について、ひとまずドラえもんの2エピソードを織り交ぜてのべることにしましょう。当記事は先の記事をもう少し詳しく記したことをここに記しておきます。さておきまずはこのお話をば。

『ドラえもんだらけ』
ある日のび太くんの宿題の代行を頼まれたドラえもんは、2時間ごとの自分に手伝わせることにする。
ところがその自分たちは何故かボロボロな姿。それは宿題を済ませた後で、後の自分たちにとっちめられてしまう。つまり彼らのボロボロな姿はとっちめられた自分の姿だったのだ。しかも時間を追うごとに寝不足で追い詰められつつ、先の自分に引っ張り続けられるはめになったそうな。

『ぼくを止めるのび太』
ある日前から買いたかったプラモデルを買うつもりが、食べたかったカップ麺を買ってしまい後悔したところ、過去に戻ってプラモを買うように説得せんとする。
ところがさらに先の自分がカップ麺を買うよう説得し、そこで口論からの大げんかにもつれ込む。
結局その後のボロボロの自分たちの説得でけんかも収まり、事態の収拾の末、何故かカップ麺のプラモを作ることになったそうな。

まず『ドラえもんだらけ』のエピソードは、ドラえもんに降りかかった問題とそれを解決しようとした結果。どうしてその結果になったのかを描いたものだった。
続いての『ぼくを止めるのび太』はその当時発売されたカップ麺の話題を上げつつ、先のドラえもんだらけのお話のオマージュを込めて、さらに複雑なタイムパラドックスを描いたつもりでお話を組んだものだけれど。たしかに前者よりも後者の方が良くてひねりを利かせ、悪くて話がこんがらがってしまった感さえもある。

さておき本編の『自分会議』では、幼い頃の悪夢を頼りに借りたアパートで、相続した山林をめぐって未来の自分たちが訪れその扱いを話し合うも結局紛糾してしまう。
そこにたまたま連れてこられた過去の自分が、未来の自分たちの姿に絶望してアパートの窓から身を投げ部屋は誰もいなくなってしまったそうな。

これもいろんな時代の自分の言い争いから子供時代の時分の身投げの後でのパラドックスによる自己喪失でのオチ。
これを深く読めば当初の青年の記憶について、たとえ子供の認識の変化がわずかな歴史の改変がなされたとしても、結局青年の記憶に帰結してしまうのではないか。そこでこういったお話のアレンジが自分勝手ながらも、
「身を投げた子供時代の自分が気が付いたら、自分の家で倒れていて、起こそうとした母親に泣きつきつつ。後にあれが自分の姿だと認め、青年時代に至って、時代に流されないように自分自身の意思で生きていこうと決心するのだった」といったオチも考えられる

つまりは子供の件で青年の記憶が活かされ、「いいかげんな」未来の自分が消滅して、残された青年がより良い自分にならんとするか否かが物語における今後の課題といったところか。

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